2008年09月19日

いのちを食べるということ

 遅ればせながら、「いのちの食べかた」を観てきました。東京ではもうしばらくの間は上映の予定はないようですが、やはりこれは紹介すべき映画でしょう。DVDが11月29日発売予定だそうですので、まだの方はDVDでご覧いただくのがいいかもしれません。

 原題は「Our Daily Bread(日々の糧)」で、その方がそのままズバリです。私たちが毎日食べている牛、豚、鶏、卵、魚、野菜、果物、... そうしたものがどうやって作られているのか、いや「生産されている」のか。それをひたすら写し出した作品です。一言の解説はおろか、セリフもなく、ただただカメラだけが廻ります。



 牛や豚が屠殺されるシーンが出て来るのは皆さんの予想通りですが、それが残酷だとか、ショッキングだとか、そういう単純な話ではありません。もちろん気持ちの良いシーンではないのですが、私たちが他の生きもののいのちをいただいている以上、それは当然予想されるシーンです。「だって、あんただって毎日食べてるんだろ、肉」そう言われたら、何も言い返せないことなのですから。

 むしろ僕がショックだったのは、野菜など植物の作られ方かもしれません。育てられ方ではなく、いかにも「作られ方」なのです。大規模な畑や温室の中で、機械や薬品をたっぷり使って、まるで工業製品を作るように作り、工業製品のように集められ、詰め込まれ、出荷されていくのです。そのスケールや、「工業感」(なんて言葉があればですが)が、たまらなくシュールで不気味です。

 あるいはニワトリ。巨大なふ卵器の中で人工的にふ化され、生まれた雛はベルトコンベアで運ばれ、体育館を幾つもつなげたような長大なケージの中で育てられ、肥育後は機械で吸い取られて箱詰めされ、出荷される。そんな生きものの一生とはおよそかけ離れた光景に唖然とせざるを得ません。テレビのニュース映像などで見る、日本の鶏小屋なんて可愛いもんです。

 農業にしろ、畜産業にしろ、日本ではまだ牧歌的なイメージがありますし、実際日本のやり方にはまだそうした雰囲気が十分に残っていると思うのですが、食料生産のグローバルスタンダードには、もはやそんなセンチメンタルな要素など、かけらも入り込む余地はないようです。

 いかに早く、安く、効率よく生産するか。そのためにあらゆるプロセスから無駄がそぎ落とされていった形が、この映画の中で次々に映し出されます。そこには収穫の喜びも、生きものとの触れ合いも、一切含まれてはいないのです。

 一体誰がこんなやり方を考えたのだろう。こんな機械を、誰が、どんな気持ちで開発したのだろう。そう問わずにはいられなくなるほど高度に合目的に作り込まれたマシンとシステム。そこまでしなければ、私たちは日々の糧を得ることができないのか。私たちの業は、いのちをいただく以上の深さを持っているように思えてなりません。

 特にそれを感ぜずには入られないのは、私たちの「日々の糧」を生産する方々自身の日々の糧や、それを食べる光景です。植物を作ったり、屠畜場で働く方々の昼食もたんたんと映し出されるのですが... これがおそろしく貧しく、わびしく、寂しげなのです。

 登場するのは、あまり食べることにエネルギーを注がないゲルマン系の方々が多いという事情もあるのかもしれませんが(笑)、それにしても、モソモソとまずそうなサンドイッチです。量も、身体の大きさと作業の大変さを補うとはとても思えないほどの少なさ。それをしかたなく口に詰め込んでは、熱くなさそうな飲み物で喉に流し込むのです。「私の人生、こんなもんよ」というセリフが聞こえてきそうです。

 本来、食べるということは、他の生きものいのちをいただいて自分のいのちを長らえるための行為です。食べ物に対して尊厳を感じないから自分の食事も貧しくなるのか。それとも、貧しい食事しかしていない人は、食べ物に尊厳を持って接することができないのか。そう思ってしまうほどに、エネルギーの流れの感じられない食事の風景でした。

 唯一救いだったのは、アフリカあたりからの移民労働者たちです。みんなで集まり、楽しそうに食事の用意をして、さぁ、これから食事を楽しむぞというエネルギーが感じられるのです。それでこそ食事です。

 おそらく私たちも既にこの映画のようなプロセスを経て作られた肉や、野菜や、果物を食べているのだと思います。安くて、便利な「食料」を求めていれば、どんどんそんな「製品」への依存度は高まることでしょう。しかしそれと同時に、私たちの食事から、エネルギーはなくなっていきそうです。

 つまり、私たちは食べ物というモノによって生かされているのではなく、いのちのリレーによってエネルギーを得ているのです。そのことを強く意識させてくれる映画だとも言えます。 

 映画を観た後には、なんとも消化の悪いモノを食べた後のような不快な満腹感に襲われました。でもよく考えてみれば、私たちにはまだ多少の選択肢と希望は残されているからです。どこで誰がどうやって作った食べ物なのか。それをきちんと考え、選んで食べていれば、私たちのいのちの環はしっかりと廻りつづけてくれるでしょう。そうか、やっぱり問題は「いのちの食べかた」なのかもしれませんね。

 そんなことを考えているうちに、人と生きものの生命力にあふれた、雑多で猥雑で混とんとしたアジアの市場が、無性に恋しくなりました。そして、そうした市場で見かける人々がいつも元気な理由も、わかったような気がします。
 
長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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posted by あだなお。 at 23:52| 東京 🌁| Comment(4) | TrackBack(0) | 食べ物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんにちわ。この映画、ポレポレ東中野で拝見しました。仕事でよく行くのですが、日本の「と畜場」も、この映画同様、かなりの近代化、機械化が進んでいますが、働いている人は、皆さん元気ですよ。高齢化が問題ですが。。。カメラが目の前にあるのに対する反応も、人それぞれな気がします。でも、アジア圏でも欧州でも「いのちのたべかた」は人それぞれなのですが、先進国という国では、皆、その「いのちのたべかた」が画一的になっている気がします。また、欧州の、とくにキリスト教圏は、動物は神様が人間の食料として与えたものというセンスがあって、その違いも現れている映画だった気もします。
Posted by all at 2008年09月20日 05:05
この問題は、自分が深く関わっているくせに、ほとんど人目にさらされることがなくて、むしろ目を背けていて、自分もそうだと思うとやりきれなくなります。
福岡賢正著「隠された風景」という本で、屠畜場で働く人の現場について書かれていましたが、とても衝撃でした。「ひどいことをする」なんて思われている彼らの方が、よっぽど温かくて優しいんです。

「いのちの食べ方」はまだ見てませんが、そういう視点から見るのもいいかもしれません。
Posted by ふじ at 2008年09月20日 13:56
あだなおさん、こんにちは。
この映画、見逃してしまって・・
DVDが出るんですね、それを、待ちます。
内澤旬子さんの「世界屠畜紀行」(解放出版社)も面白かったですよ。こちらは、イラスト入りなんで、ソフトな感じです。
Posted by みかん at 2008年09月20日 22:07
>allさん

こんにちは。そうですね、ポレポレでもやっていましたね。僕はそのときに見損ねました(^^;)

宗教観が影響しているのかどうかはわかりませんが、命という意識があまり感じられず、単に「食べ物」としか考えていないのではという印象は受けました。日本人も含めて、アジア人の方が「食べ物」に感情移入をしていそうですね。

>ふじさん

そうですね、おそらくそうやって見えなくしてしまうことで、消費を拡大することが可能になっているんでしょうね。毎日考えていたら、とても食べられなくなってしまう人が続出でしょうから...(^^;)

>みかんさん

内澤さんの「世界屠畜紀行」はおもしろいですね。あの本に出て来る人たちはみんなすごく人間的だなと思うのですが、この映画の場合には、演出なのかもしれませんが、人間性をあえて抹殺したようなところがあって、それが余計異様でした。DVDをぜひご覧ください。
Posted by あだなお。  at 2008年09月23日 23:19
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